• HOME
  • 指導のヒント
  • 先生熱血Voice福島編 震災の現場から~今を伝えたい~浅野浩士先生

先生熱血Voice福島編 震災の現場から~今を伝えたい~ 福島県相馬市立磯部中学校 浅野浩士先生

消えてしまった町

磯部地区全景。集落のほとんどが消えてしまった。
磯部地区全景。集落のほとんどが消えてしまった。

福島県相馬市の海岸にある磯部地区の高台には小学校と中学校があり、津波の被害がここまで及んでいないのを見て安心した。しかし、高台のはずれから北を見下ろしたとき、悲鳴をあげてしまった。何もない!ここには大浜、芹谷地という二つの集落300戸が、海岸線に沿って寄り添うようにあったはずだ。集落を抜ければ日本百景に選ばれる松川浦があり、白砂青松の砂洲は何度走っても気持ちのいい道だった。その堤防は崩れ、松林はほとんどなぎ倒され、周囲は水で覆われている。津波の前には人間はまったくはかなげな存在だ。

磯部中学校校舎。全校生徒が100名を切る小さな学校だが、震災でさらに生徒の数が減った。
磯部中学校校舎。全校生徒が100名を切る小さな学校だが、震災でさらに生徒の数が減った。

磯部地区は、福島県の中でも最も被害の大きかった地域であることは間違いない。相馬市では5000人が津波で被災し、450名の死者・行方不明者があったが、その半数以上がこの地区に集中した。磯部中学校は全校生徒75名の小さな中学校で、震災後転校した生徒もおり、現在の生徒数は55名。このうち41名が津波で家を失くし、亡くなった生徒も6名に及んだ。

避難所で学習会を開始

子供たちが学校で安全に過ごせるように、教頭先生が50地点で放射線の測定を行う。2時間以上かかる大仕事だ。
子供たちが学校で安全に過ごせるように、教頭先生が50地点で放射線の測定を行う。2時間以上かかる大仕事だ。

磯部中学校の3年の社会科を担当する浅野先生は31歳。実家は福島第1原発のある大熊町にあり、新しい家を建設中だった。住まいは相馬市に置いていたものの、原発事故後、実家は福島第1原発事故の半径20キロ圏内で、立ち入り禁止の「警戒区域」になってしまった。幼いお子さんと奥さんを放射線レベルの低い会津に逃がし、今は単身だ。そんな状況であったが、震災直後から浅野先生は子供たちに寄り添うように活動を始めた。

求人票は前年の半分だ。
磯部中学校校歌には「渦潮たぎる東の荒磯~」と歌われる。この海が人々のすべてを奪うことになろうとは…。

磯部地区の被災者の多くが市の福祉施設に避難していたことから、先生は3月18日、会館に学習会の場所を確保し、子供たちが勉強できる環境整備をした。そして勉強を見てあげるかたわら、子供たちの話し相手、遊び相手になった。親の影響で不安定になっているのだろうか、子供たちは漠然とした不安を話したがっていた。それを聞いてあげるだけで子供たちはほっとした。またかたくなな子供たちの心も若い浅野先生が一緒にやんちゃをしながらほぐしていったせいで、父と祖父母を一遍に失くした悲しみを生徒は話し始めるのだった。

  • 1ページ目
  • 2ページ目

取材:新妻香織

1960年4月16日生まれ。福島県相馬市在住。
NPOフー太郎の森基金はぜっ子倶楽部・代表

<経歴>
日本女子大国文学科を卒業後、JTB出版事業局で月刊「旅」や「るるぶ情報版」の編集に携わる。
90年ケニアに移住、ライターとして活動する傍ら、英系旅行代理店UTCナイロビのジャパンデスク代表。
5年間でアフリカ縦断、横断など28カ国を旅し、95年帰国。98年アフリカの緑化と水資源開発を行う「フー太郎の森基金」を創設、代表となる(10年外務大臣賞受賞)。
2000年に松川浦の環境保護団体「はぜっ子倶楽部」を創設、代表となる。05~08年市民と共に作り上げた松川浦の総合雑誌「まるごと松川浦」の編集長も務めた。震災後は自らも被災者であるが、様々な被災者支援活動、調査なども行っている

<著書>
96年 アフリカ横断記「楽園に帰ろう」(河出書房新社)ノンフィクションの文学賞「蓮如賞」優秀賞受賞
99年 年絵本「フー太郎物語―森におかえり」(自由国民社)
08年 「まるごと松川浦」(松川浦ガイドブック編集室)
09年 「よみがえれフー太郎の森―エチオピアで希望を植えよう」(東京新聞出版局)

  • 英語のチカラ

Copyright JIEM,INC. 2012 All rights Reserved.